良心とは何でしょうか。英語の conscience はギリシア思想に由来する長い系譜を有しており(原義は「共に知る」)、日本では19世紀末に「良心」という訳語を与えられることになりました。時代や地域によって「良心」の理解や解釈の違いがあることは言うまでもありませんが、「良心」をめぐって、人間の心(意識)のあり方、人間の相互関係、超越者との関係に関心が向けられてきました。その意味では、良心は「道徳」や「倫理」、「利他主義」や「宗教」、「グローバル・エシックス」や「宗教間対話」などとも隣接する概念であり、本研究センターにおいても、これらをキーワードにしながら、幅広く人間の精神と行動を研究していきたいと考えています。
現代世界を見渡すと、人間の心は必ずしも寛容や平和を生み出しておらず、むしろ、様々な価値観の対立が紛争や戦争を引き起こしている様が見えてきます。もちろん、こうした状況は今に始まったことではありませんが、大規模な人口移動、グローバルな価値多元化、出口の見えないテロとの戦いなどは現代特有の現象であり、文字通り「良心が痛む」出来事も少なくはありません。こうした21世紀初頭の状況を視野に入れるとき、私は良心を「対立する価値観(判断)を調停する能力」として理解したいと思います。
そうした良心の力を覚醒し、問題解決に寄与するためには、様々な「知」の連携と「知」の実践が欠かせません。本センターが、人文社会系や理系といった既存の学問領域を超えて、学際的な研究を展開しようとする理由もそこにあります。一人の人間が良心を痛めたところで、事態を改善するためにできることなど何もないと考えるかもしれません。しかし、一人ひとりの良心をつなぎ合わせ、それぞれの場で実践することができれば、世界の「見え方」は変わってくると思います。
同志社の設立者・新島襄は米国留学中に conscience という言葉に出会い、それを実践する人々によって助けられ、将来への展望が開かれていきました。conscience を知り、体験することによって、彼の世界観は大きく変わったと言えるでしょう。良心学研究センターが目指す目標は無謀に見えるかもしれません。しかし、「倜戃不羈(てきとうふき)なる書生を圧束せず、・・・」(常軌では律しがたい学生を圧迫しないで、・・・)という新島が遺した言葉に励まされながら、倜戃不羈なるチャレンジを試みていきたいと考えています。
皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
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